見えない美しさ
私は見えない美しさが好きだ。
もちろん、見える美しさも好きだ。この前美術について話したようにそれも好きだ。
しかし、見える美しさというのはどこが美しいのか「決められて」それが多くの人の共通の「美しさ」になってしまう。
私は大衆になるのが嫌いなので見える美しさより見えない美しさを選んでしまう。
では、見えない美しさとは何か。昨日撮った写真は非常にいい例だ。
ブログのヘッダーにも使っている画像だ。これを見た貴方の感想を思い浮かべて欲しい。
恐らくだが、この画像を見て「感動」を覚える者は早々いないだろう。「寂寥感」や「懐かしさ」なら尚更か。(後者の場合故郷であるなら有り得るだろう)
事実、この写真は東京の端にある東大和市の端の多摩湖で撮っている。特徴的な取水塔があるがそれだけだ。
しかしここはららマジプレイヤーからすれば聖地であるので大きな意味を持つ。そしてららマジは6月3日にサービス終了を迎えるためより強い意味を持つことになる。これこそが「見えない美しさ」である。ららマジは悪い言い方をすればメジャーではなかった。そういう小さいコミュニティであるからこそより強い絆と意味が現れる。
ある物、場所、風景などに特定の人物や自分だけが感じることの出来る「美しさ」が好きなのだ。
しかし誰かの見えない美しさは私には分からないので、私の見えない美しさを発信したい。理解してもらいたくて発信するのではなく、あくまで「こんなちっぽけなものに感動を覚える人間がいる」ということを伝えたいのだ。
故郷の写真などは自分や親族にしか理解出来ない。そして他者は理解してはならない。本人とはその写真に込められている思い出やそこに至る道のりが違うのだ。何かの拍子で見せられたら「そうか、美しいな」と言ってあげればいいのだ。「貴方の思い出は理解できないかもしれないが、この写真は美しいものだ 」と考えてやればいい。
自分にしか理解できない美しさをぜひ見つけて欲しい。それは心の糧になり、人生を少しだけ明るくしてくれる。