なぜペルソナ主人公を受け入れられるのか

私は名有り主人公が嫌いだ。

現実で認められないからゲームの中で英雄になって認められたいという愚かな承認欲求である。

だから、何らかのゲームをやり自分の名前でプレイする。しかしそれがアニメ化、ノベライズした時固有の名前が主人公に生まれる。

その瞬間に主人公は私ではなくその人になってしまう。私はそれが最も嫌いだ。

 

プリコネがしてその例である。アニメをやってから主人公はユウキ一択になってしまった。平凡な顔に平凡な名前の主人公が完成してしまった。そしてそれは大衆に受け入れられた。Brandonという主人公は死んだのだ。

 

しかし、ゲームで自由に名前をつけられながらもアニメでデフォルトネームがある主人公でも好きな例がある。

それこそがペルソナシリーズの主人公だ。

3では結城理、4では鳴上悠、5では来栖暁。

しかし私は自分が主人公であると確信しながらも彼らを受け入れることが出来ている。それはなぜなのだろうか。

それはペルソナシリーズの主人公は顔がメインキャラクターとして受け入れられる印象的な顔であり、主人公自身が戦うからに他ならない。

私が自分の名前を付けた主人公は大抵戦わない。見ているだけ。故に強烈な個性がつかず、デフォルト主人公が出てきた時に自己が負けてしまう。

しかしペルソナ主人公の場合は、自分の名前のついたイケメンが戦い、学園生活を送り、世界をも救う。故に頭の中で強く自分=主人公と結び付けられる。

またペルソナシリーズは自由な作風だ。どのようなペルソナを仲間にし、どのようにダンジョンを攻略し、どのような人と親交を深めるのか。これはプレイヤーの自由だ。アニメで描かれるペルソナと自分が描いたペルソナは全くの別物なのだ。だからP5の場合私なりのジョーカーがそこにあるし、来栖暁なりのジョーカーもまたそこにあるのだ。

 

見た目が平凡ではないというのは極めて重要だ。

見た目が平凡なら口調、性格によって見た目は食い殺され、そちらばかりが印象に残る。しかし見た目が優れているとそういった内面的なものは外見に食い殺され、現実の自分との口調や性格の乖離は気にならなくなる。 

またペルソナは壮大な物語だ。世界を救ってしまうのだからその役を担うのは当然美男美女であるべきだ。

平凡な主人公が世界を救ってしまっては面白くないし、平凡な主人公と平凡な自分を比較してしまい感情移入がしにくくなる。しかし個性的な主人公なら自分はそうはなれないと分かりきっているので心の中で主人公になりきり深く感情移入出来る。

 

平凡無個性はある種最強の個性と言える。だって世界中の誰もが平凡無個性であるが故に、それは他人に見えるから。

特異な個性はある種最強の無個性と言える。この世界にそのような個性あふれる人はいないのだから全力でなりきれる。

英雄になりたい時、ペルソナをやってみよう。きっと貴方を満たしてくれる。