破れた叡智

その男に未来は無い。

ただ暗い夜道を歩き、糾弾するような街頭に会釈する。かつて頬を撫でた暖かい風も、今は肌を裂く刃となって男を襲う。

男は何処へ行かんとするのか。ある人がそう問うた。して男は「どこか、暖かい場所へ。死の溢れる凍えた場所ではない、命のある場所へ」と。また「凍える地も悪くは無い。吹雪く地には神がいる。人を守る神がいる。しかし今其れを信じる者は最早居ない。神とて信じる者無しに生きていくことは不可能なのだ」と続けた。

この世界は寒い。陽が登らない。

闇に覆われた土地、吹雪の襲う土地、命のある土地。この何れかしかない世界だ。

男は今、闇の中を歩いている。時折闇の中に幻覚を見る。動物の頭の人間が目を血走らせて走り回っている。桟橋に赤い巨人が居る。浅瀬の中に一つ目の悪魔が居る。誰かが次々に飛び降りてくる。

それは男の心象風景。彼の頭の中ではこのような地獄にも似た混沌の景色が繰り返される。しかして彼は叡智の人である。誰よりも叡智を知り、叡智を貪欲に求める「獣」の赤子だ。

狂人と賢人は紙一重。狂人は頭に異常を描き、賢人もまた然り。高き叡智故に男はその景色を見る。

黒いコートを見に纏い、闇夜を歩くその様は世捨て人。しかし侮ることなかれ。彼はこの絶望に塗れた世界で数少ない希望だ。太陽だ。

そして彼は故郷に辿り着いた。かつては水の都であった故郷は今や吹雪に包まれたコキュートスである。

本来であれば水の都は闇に覆われた土地である。しかし彼と神との繋がりが深いゆえ、神の元の住まう土地である雪国の吹雪がここにはあるのだ。

闇は絶望を。雪は艱難辛苦を意味する。

闇に包まれ、雪に覆われた故郷を見、男は涙した。そしてまた歩き出した。小さなランタンと包丁を持って。

故郷から命のある土地へはそう遠くない。その体を苦難に染め、歯を食いしばり、男は進む。

今はまだ小さな太陽であるが、確かな光を手にした男は何れ世界を再び照らすだろう。

穢れに呑まれ死したこの世界に命を吹き返す者は「獣」しか居ない。だから男は最後の叡智を求めて歩む。

この男が「獣」となった時、どのような姿をしているだろうか。願わくば、世界を再び穢れに染めぬ為、狼の顔を持ち、鹿の角を生やし、獅子の体をし、右の手の肥大した「啓蒙の獣」であらんことを切に願う。

私は受難者。この男の嘗ての唯一にして最大の友であった者。