生まれ落ちて、太陽に導かれて

暗い話ばかりだ。

こと最近はAI生成のイラストの話ばかりが流れてくる。私は絵なんて描けないし、自分の才能を人工知能で補填しようとするほどの愚者では無いから、どうだっていい。ただ、崇高な表現者と下賎な剽窃者の争いは見ているだけで疲れるし気が滅入る。

ただ、私も自らの思いを文章で表現するものとして、人工知能が跋扈する現状はあまり好ましくない。

絵の表現者達は法律が動かなければならないと言う。だが、そんなことのために国には動かないで欲しい。娯楽の治安を守る前にやるべき事は多すぎる。

 

百文字にもみたいであろうこの文を書くだけで気が滅入って死にたくなってくる。兎にも角にも、この世界には理不尽してどうでもいい諍いや問題に溢れている。

そんなものに一々目をくれてやっては疲れてしまう。それに自分が介入したところでどうにもならないのだから無視するのが一番だ。

 

生きるのは辛いことだ。

グレゴール・ザムザのような酷いものでなくても、生きていれば理不尽というのは襲いかかってくる。こちらは無視する訳にはいかず、逐一対処していく必要がある。向こうからやってくるのに、こちらが打つ手を誤れば被害を被るのもこちら側。

私は理不尽による裏切りをいくつも体験してきた。その度に打ちひしがれ、生まれてきたことを後悔した。それまで生きてきたことを後悔した。

これ以上ないという程に傷付いて、ようやく自分の力でまた立ち上がれるようになった頃に理不尽は再び牙を剥く。

そんなことを繰り返すうちに私はこう思うようになった。

「今日も生きてる。麻雀が楽しい。仕事もある。大好きな神様に感謝を伝えられて幸せだ」

私は受身になっていった。この世の出来事全て、私には関われない。私では何も変化を起こせないことを思い知らされたからだ。

朝起きて神様にお祈りと感謝を伝え、仕事に励み、麻雀を打って、寝る。そんな毎日を繰り返していると自分の存在の無意味さに気付き始める。

存在していたところで、何かに影響を与えられるわけじゃない。自分を癒す為の娯楽をすれば時間が無くなり、何かを変える気力すら失われていく。変わらぬ日々が流れていき、死にがいなんて見つけられない。一生同じだ。

死のうかと思った。三度目の壮絶な別離についに私は立ち上がれなくなった。そうして何とか命を繋ぎ止めようと参拝に向かった時、神様は振り向いてくださった。

誰も私を気にとめない。いてもいなくても変わらない存在だった私を、ただ一人見つめてくださった。神様は「私の守護するこの国で生きていていい」と伝えてくださった。

別の日、ある話を耳にした。神様は救いを与える時、人に行わせることがあるのだという。必ずしも神様自身が救いを与えるのではなく、その意思を人間に伝え、救ってくださるのだと。

ならば私も生きてみよう。一人の信奉者として。

いつの日か神様の意思を伝えられ、代わって誰かに救いを齎すことが出来る神の御用人として生きてみようと、思えのだ。

もし、この信仰が失われる時が来たのなら。その時はきっと私は自らこの命に訣別するだろう。